闘病生活と結婚生活と仕事と|第6回・双極性障がいとわたし

闘病生活と結婚生活と仕事と|第6回・双極性障がいとわたし

ようやく気付いた自分の異変。

藁をも掴む思いで精神科へ向かいます。

精神科へ…

下された診断は「うつ」

待ちに待った月曜日。

予約制ではないので朝イチで病院へ向かいました。顔を洗う余裕もなければ着替える余裕もないです。勿論メイクなんてもってのほか。着の身着のまま。

歩いて行けば15分かからない位の所にその病院はあります。

初診なので色々なことを聞かれます。今どのように悪いのか、どれ位続いているか、その原因は…

受付の電話で聞かされていたように、カウンセリングに1時間掛かりました。

診断は「うつ病」。 

新型の抗うつ薬と、睡眠も取れていないこともあって短時間用の睡眠薬を処方されました。

放置したら危険との判断に…

それ以前に憔悴具合が激しく、見るからに身の回りのこともできていない様子で、希死念慮がある…

このままでは危険なので入院を勧めたいと転院用パンフレットを渡されました。中身を見れば閉鎖病棟から始めるという内容…!

母も長年精神疾患を患ってますが入院経験はなく、もちろん閉鎖病棟とは無縁です。

絶対嫌だ!と拒絶したら、先生から「とにかく一人にしておくのは危険」と実家に帰ることになりました。

父に連絡をし、1週間分位の荷物をまとめ迎えに来てもらい実家へ。

半年前に押さえていた毎年恒例のライブ… こんな状態では 行けないので(生きた心地もしなくてそれ所ではない)、ライブ友だちSには申し訳ないけどキャンセルしました。(別居しているのは知っている)

家族との闘病生活

食事の問題

服薬をするとなれば食事は必須です。

ですが、それまで絶食に近い状態…強いて食べたいものがあるというならば「板チョコ」位しかありませんでした。

両親には「ええ?」という顔をされましたが、ひたすら食べ続けました。

あとは自宅にいた時と変わらず寝たきり。

時々母が様子を見に来て「寒くないか?」、「食べれるものは?」と声かけをしてくれました。母も病気のはずなのに30年前の母に戻ったかのようです。

なかなか偏食は直りませんでしたが、しばらくすると「チョコレート」が「プリンアラモード」に変わりました。せめて果物を食べてほしいという親の気遣いです。

当時の私はとにかく甘い物を欲していたものです。(うつの方は甘い物を欲する傾向にあるともいわれています)

あんなに好きだったのに…

テレビはわずらわしく全く見れません。

大好きだった音楽にも興味が無くなりました。(ライブなんてとても)

本は精神的に刺激のない動物系のマンガのみ。同じ本を延々と何百回と読んでいます。

時間だけは無駄にあるのでSNSを上から下まで、見れる範囲の全部を見ていました。

家族との葛藤

実家に戻ったものの、隣に住む祖母のところへは、申し訳なさが勝ち、顔を出しに行くことができませんでした。

私の結婚を切望していてようやく!だったのに別居して出戻っているとは言えなかったのです。

そんなある日、父が気晴らしにとショッピングモールに連れ出してくれ、好きな物を買ってこい!とお金を握らされ、渋々入店しました。

そこには幸せそうな家族が沢山いて、かつて自分が描いてた未来像を突き付けられてしまいます。現状がそんな未来像から程遠いところにあることに気付いて愕然とし、絶望感で大泣きながら帰りました。

あとで知ったことだったのですが、私のような状態の人間にとってはそういう行動は禁忌だったのです。

治療しても治療しても…

通院すらしんどい中…

病院が遠かったので最初の頃は父に送ってもらい、通院は1週間おきでした。

それでも徐々に2週間おきに移行し、自力で電車通院するようになりました。

ただ体力が落ちているので行き帰りは家で一旦休憩、そのまま泊まることもありました。

そんな時、ふと、旦那さんの荷物が少し減っているのに気が付きました。

旦那さんとの距離は開くばかり

別居を始めてからLINEや電話は基本返信しませんでした。返答が怖いからです。

しかし旦那さんは、変化のない部屋を見て私が不在にしているのに気づいたようです。

たまに家に来ているのならば、と、私も旦那さんが来そうな時間帯は避けるようにしました。

すると突然誰かと喋りたい欲がムクムクと湧き、手当たり次第に電話を掛けまくりました。

妹や大学時代の友だちなど、これまでの辛いこと洗いざらい。相手の都合、時間、長さ問わずです。

幸い優しい人ばかりで話を聞いてくれました…。

より踏み込んだ治療へ…

睡眠薬こそは効いているものの、抗うつ薬の効き目を感じませんでした。何週間か様子をみては変更になります。次々変更になっているものの一向に改善されません。

根本的な問題(旦那さんとやり取り)を取り除いていないのが一因だということになり、カウンセリングも更に深く行われます。

この1週間の気分や睡眠、結婚以前の過去の話へも踏み込むようになりました。

隠れていた本当の病名

「双極性障がい」の診断が下る

何度カウンセリングを経た頃でしょうか…

私の「過活動(仕事でアイデアが次々浮かぶ、不眠不休など)」「不眠」「浪費」「多弁(電話の件)」はただの「うつ」ではないのではないか、という疑いが浮上します…

これは「双極性障がい」ではないか、と、診断が変わりました。

「双極性障がい」について

「双極性障がい」は、気分が高揚した「躁」と、逆に気分が沈んで落ち込んでしまう「鬱」を繰り返す病気です。

大体この病気の人は「うつ状態」の時に初めて受診する人が多いそうです。私もその一人でした。

どちらかというとうつ状態の方が長く続くのですが一旦躁状態になると活動的になったり、喋りすぎたり、怒りっぽくなったり、浪費や性的逸脱行為、何らかの依存症が伴ってくるといわれています。

そのために周囲との人間関係が悪くなり(特に家族)破綻してしまうこともあります。

「うつ病」と「双極性障がい(躁鬱病)」は全く違うもので、治療方法も変わります。抗うつ薬ではなく、再発予防においては、薬物療法と心理社会的治療法が車の両輪となります。

私の場合

私の場合、双極Ⅱ型障がい(Ⅰ型に比べると躁状態が軽い)にあたり、気分安定薬と呼ばれる薬(リチウム、ラモトリギン、バルプロ酸、カルバマゼピン)と、非定型抗精神病薬(オランザピン、アリピプラゾールなど)が用いられています。

その中でも、予防療法において最も基本とされている薬がリチウムで、私はパルプロ酸と2種類処方されました。

薬の副作用でレストレスレッグス症候群が現れ(足が震える…私は足より手、文字が書けなくなりました)、それを抑えるためリボトリールが追加処方され、幸いにも手の震えと足の不快は止まりました。

本来は双極性障がいの治療においては禁忌なのですが、あまりにもうつ状態が酷いため、躁転覚悟で抗うつ薬(その当時はパキシル)は引き続き投与されました。

虚しい誕生日

そして、誰にも祝われない誕生日が訪れます。5年に一度の免許の更新年です。

大学時代の友だちがたまたま誕生日が近かったので、一緒に免許センターへ行くことにしました。

免許センターで撮られる写真は犯罪顔になる、なんてよく言われますが、その時の私の顔は頬がこけていました。

苗字は婚姻名、住所は自宅です。虚しさで一杯でした。

退職を迫られるも…

人に触れる喜び

ケガや病気をして4日以上働けないと、その間生活保障として「傷病手当金」を受給することができます。

私の場合、療養のため就労不能という名目で休暇をもらっているのですが、傷病手当金を貰うためには毎月手続きをしなければいけません。

提出書類を持って月に1度総務部長と事務長がわざわざ実家方面に出向いてきてくれました。

通院の際、自宅に戻ったタイミングで、という時もありました。

基本そこで行われるのは様子見と書類書きがメインです。

久々に親や先生以外の慣れ親しんだ会社の人と会うのが嬉しくてつい表情がほころんでいたようです。

会社側も休職をした事情を知っているので旦那さんの話題には触れません。

それが何か月か続くのですが…

退職の催促、でも!

ある日、総務部長と事務長はある事を切り出してきました。まあハッキリ言うと退職の促しです。

社会保険などは労使折半になるので会社が不利益をこうむります。不況の中、いつ復帰できるかわからない人間を在籍させておくわけにはいかなかったのでしょう。戦力外通告をしようとしていました。

でも私は、拒否し続けました。

そこに旦那がいようとも、就職氷河期に掴みとった「正社員」という立場がありました。

また、同時に受けた2人を蹴落とし、14年間もの間、終わらない深夜残業・吹き出物・嘔吐・咀嚼不能といったあらゆるストレスに耐え続け、クライアントから指名をいただけるようになったり、コンペに参加させてもらったりしていたこともあった小さなプライドです。

そういった、旦那の倍は上回る「キャリア」を失いたくなかったのです。

先生にも、今の精神状態で大事なことを決断してはいけないと言われていたことも大きな要因です。

旦那さんとの決別

問題の根っこは…

もう1つ決着をつけないといけないといけないことがありました。

この病気に気づかせてくれた張本人・旦那さんと向き合うことです。

別居の開始以来、LINEはブロック、電話は出ないというのを貫いてきました。

実家に電話が掛かってきたこともありましたが取り合いませんでした。(親が受けても私が電話口に出ることはありませんでした)

しかし、いつまでもこのままではいけないと思っていたのも事実です。

何かしらの「結論」を出さなければ…

正直「離婚」の文字が頭をよぎって恐怖しかありません。一度掴み取った幸せを手放すことが怖くて怖くて仕方がありませんでした。

親同士で話し合い、両家で一度話し合いを持つことになりました。

旦那さんとの対峙

ファミレスでコーヒーをすすりながら…空気が読めない旦那さんは1人パフェを食べていました。

話し合いの場にそれかよ!と思いながら、甘い物好きだもんな…と良かった時期を懐かしみつつ。

親同士は話し合いをしていますが、旦那さんは私とは一切目を合わせてくれません。

しかし、その場まで出てきて何も発しないということはありませんでした。

「一緒にいると寛げない」
「同じ正社員同士とはいえ、自分の方が家事の負担が大きい」

それが旦那さんの主張でした。(多分これだけではなかったと思いますが…)

自分でも結婚初期から気づいていたことです。

結局その場では決着がつかず一旦話は持ち帰ることになりました。その後旦那からの再三の連絡に怯える毎日が非常に辛かったです。

そして…終局

悩みに悩みました…が、別居から半年後「こちらから離婚してもらう」という体で離婚することを決意しました。

「離婚された」だとショックが大きいので…「離婚してもらう」という事にして自分の心を守ったのです…

こうして私たちの短い結婚生活に終わりを告げました。

大事なことは~と先生には言われていましたがいつまでもこの状態では自分も元旦那さんも疲れるだけ。

離婚したことで精神が摩耗し、喜びと悲しみの差のトラウマが残り、通院するにも動悸・息切れ・震えが止まらなかったので、再び父に病院の送り迎えをしてもらいました。

そうして離婚から2か月…

気持ちの整理はつかないが住めない家を借り続けてもしょうがないということで、14年以上住み慣れた大好きな街を離れることになりました。

家を解約したことは秘密、会社への籍はまだ残したままです。

家に母と二人きり

母と私の確執…

またまたフリーになりました。仕事は休職中で、相変わらず退社を促されます。

昼間は父は仕事へ行くため母と二人きりです。

それは実家に戻ってからずっとそうだったのですが、離婚に踏み切って時間が経つごとに関係性は徐々に和らぎ、リビングで過ごす時間も増えてきました。

それでも、母にもこれまで自分のペースで過ごしていた時間がありました。

私がいることでそのペースも乱されます。食事だったり、テレビのチャンネル権だったりもそうでした。

最初は仲良く過ごしていました。母が見ていた番組を一緒に見て笑っていたり。

しかしそれは長くは続かなかったのです。

陽と躁のぶつかり

母の病気「統合失調症」の「陽」の症状と私の「双極性障がい」の「躁」の症状はどことなく似ているところがあります。イライラや怒りやすいところです。それも波があります。

気にくわない所があれば取っ組み合いのケンカになったり、醜い言い争いになったり。洋服や靴も欲しいものが被れば取り合いになり、結局同じものが2つになったりもしました。

時には父が仲裁に入り、「お前は部屋から出てくるな!」と言われましたが、私も見たいテレビ番組や用事もあるので完全に引きこもることはできません。

次第に家にずっといるのもなあ…と思うようになってきました。

気持ちが外へ向かおうとしていました。

ここまでの更新:

わたしが社会に出るまで|第1回・双極性障がいとわたし

仕事、一人暮らし、そしてカード地獄|第2回・双極性障がいとわたし

社内環境の変化と恋と別れ|第3回・双極性障がいとわたし

借金だらけの底辺生活から幸せの絶頂へ|第4回・双極性障がいとわたし

幸せの絶頂から叩き落とされて…|第5回・双極性障がいとわたし

闘病生活と結婚生活と仕事と|第6回・双極性障がいとわたし

奔放な恋愛と仕事での絶望、そして運命の出会い|第7回・双極性障がいとわたし

就労支援による再々就職と止まらない衝動|第8回・双極性障がいとわたし

障がい者手帳・自立支援手帳・障がい年金についての体験談|第9回・双極性障がいとわたし

続かない就労支援と病状の悪化、旦那さんの葛藤|第10回・双極性障がいとわたし

仕事と家庭と病気、そして今のわたし|最終回・双極性障がいとわたし

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