診断が下るまで、私は自分が虐待を受けているとは知らなかった。|第1回・境界性パーソナリティ障害と虐待

診断が下るまで、私は自分が虐待を受けているとは知らなかった。|第1回・境界性パーソナリティ障害と虐待

境界性パーソナリティ障害と生きてきた半生

初めまして、長瀬舞と申します。

私は境界性パーソナリティー障害と、パニック障害、発作性頻脈症を患っております。

現在のカルテには記されていませんが、幼いころから不眠にも悩まされてきました。

見捨てられ不安が強くて人に迷惑をかけ、いつ起きるかわからないパニック発作と動悸に怯え、寝つきが悪く朝まで眠れないことも多く、毎日を不便だと思いながら暮らしております。

「境界性パーソナリティー障害は30歳までに落ち着くことが多い」と聞きましたが、私は現在31歳。多少の変化こそあれど、いまだ境界性パーソナリティー障害の闇の中にいます。

若いころの私は、典型的な境界性パーソナリティー障害者でした。リストカットをし、ODをし、過食をし、拒食をし、自殺未遂をし、周りを振り回していました。

初めてリストカットをしたのは小学校四年生の時。いじめに耐えられず、担任の先生に相談しても理解されず、父にも母にも相談できず、絶望した私はリストカットという言葉すら知らぬまま腕を切りました。

初めてパニック発作を起こしたのも、この頃だったと思います。

不眠を自覚したのはもっと早く、幼稚園生のころにはすでに眠れない日々を過ごしておりました。

異変の気付きは見過ごされ…

私の異変に気づき、行動してくれたのは高校一年の時の担任の先生でした。

「両親と話がしたいから、必ず両親二人で学校に来てほしいと伝えてくれ」

と言われ、私はそのまま父と母に伝えました。

しかし父は「お前が行く必要はない」と母を置いて学校へ来て、先生と話をしてきました。

私はその場にいなかったのでどんな話が出たのかはわかりませんでしたが、少なくとも精神科を勧められたのは間違いなく、後日先生からは病院に行ったか訊かれました。

父はというと「お前が知ることじゃない」と母と私を黙らせ、私はそこで精神科に行くタイミングを逃しました。

あの時行っていれば、もしかするとここまで悪くはなかったのではと後悔しています。

依存、いじめ、それでも勉強だけは頑張った。

そしてこの高校生という多感な時期、私は友人や彼氏に酷く依存していました。

彼らがいなければ私は生きている意味などないと本気で思っていましたし、彼らが私を嫌いになることがあれば死のうと本気で思っていました。

しかし私は彼女たちに依存しすぎたのでしょう。やはりというべきか、友人たちから見捨てられる日が来ました。

昨日まで仲良く話していた友人たちに無視をされ、悪口を言われ、遠ざけられ、奈落の底へと突き落とされました。

いじめが始まった理由は本当にくだらない。「私が一生懸命勉強しているのが気に入らなかった」から。

私はかつてないほど深く腕を切り、校内のトイレで首を吊ろうとしました。けれど察した先生たちに見つかり、失敗に終わりました。

失意の中にいても、私は大学受験だけは諦めませんでした。いじめられても、ずっと頑張って成績だけは維持してきた。県外だけれど、模試ではA判定。絶対に合格できると信じ、父と母に願書の確認をお願いしました。

しかし。

「バカかお前は。県外の大学なんかに行かせるわけねえだろ」

今までずっと「お前の好きな大学へ行け」と言い続けた父は、あっさりと私を裏切りました。頭が真っ白になったのを覚えています。

その年の受験がうまくいかなかったのは当然のことでした。

私はここへきてようやく、母に精神科へ連れて行ってほしいと懇願しました。小学四年生からずっと死にたい思いを抱えてきて、ようやく助けてほしいと言えたのです。

でも……待っていたのは、今まで以上の地獄でした。

「病院」に出会えなかった

このころ世間では、ようやくうつ病というものが出回り始めていました。しかし、圧倒的に精神科を扱う病院は少なかったように思います。

私も当時は自分がうつ病だと思っていましたし、精神疾患についての知識はほとんどありませんでした。なので、知りうる範囲の病院を片っ端からあたることにしました。

1.小さな病院

最初に行ったのは、内科と心療内科を診ている小さな病院でした。

内科としてお世話になっていましたし、いきなり精神科に行くよりは敷居が低いと思ったからです。そこで最初に出された薬はもう覚えていませんが、しばらくの間通ったあと先生から「うちでは面倒みきれない」と言われてしまいました。

2.駅前の精神科

次に行ったのは、最寄り駅の駅前にあるビルに入っていた精神科です。大通りに面していましたし、目立つ病院でもあったので、きっと何かわかるだろうと希望をもって受診しました。

しかし医師に言われた言葉は「キミはうつ病じゃない。ただかまってほしいだけだ。病気じゃないんだから、帰ってくれ。うちは暇じゃない」。

私は泣きながらボロボロの腕を見せ、助けを求めたのですが、看護師さんに追い出されました。

3.隣町の精神科

次に行ったのは、隣駅の駅前にある精神科。

できたばかりだったので、最新の情報に詳しいだろうと思い、受診しました。この病院は何となく雰囲気がおかしく、それなりに広い診察室にはまるでドラマの社長室のような机と椅子が置かれていて、その脇にはベッドが置かれていました。

なにが、とは言いませんが、嫌な予感がしました。看護師が退室し、若い男性医師と二人きりになると急に不安になり、「具合が悪くなった」と適当な言い訳をして病院を出ました。

4.国立の病院

次に行ったのは国立の病院でした。

実は私は、かつて車に轢かれ、事件を隠蔽しようとした犯人にそのまま誘拐されるという事件にあったことがあり、その病院の精神科は初めてではありませんでした。

しかし結果は「病気ではない。通院する必要はない」とのことでした。

5.地元から離れた精神科

次に行ったのは、地元から四駅離れたビルにある精神科でした。

この病院でようやく精神科らしい薬を処方されましたが、医師は診察と言えるものはあまりせず、診察前の問診票を見て、ほとんど無言のまま薬を出していました。

飲んでも飲んでも変化はなく、それどころか医師への不信感が募り、私は再び病院を変えることにしました。

6.郊外の大学病院

次に行ったのは、郊外にある大学病院です。

実はここは最初のころ一度だけ診てもらったことがあったのですが、その際はやはりうつ病ではないからと帰されていました。

けれどその時と違っていたのは、私が薬の副作用で意識が朦朧としていたことです。

自分の意思がどこにあるのかもわからず、診察を受けました。

三人の医師がまるで面接官のように対面へ座り、私は聞かれたことに答えました。

やがて私は診察室から出され、外で待っていた母が診察室へ入るよう言われました。

私は待っている間、椅子に座ってぐったりしていました。

そこへ看護師が数人現れ、私を無理やり起こすと別室へと連れて行きました。

訳も分からぬまま、私は椅子に座らされ、腕を押さえつけられました。

注射を持つ看護師の姿が見え、「もう薬は嫌だ!打たないで!」と叫ぶと、数人がかりで全身を押さえつけられ、問答無用で安定剤を打たれたのです。

7.知人の紹介の精神科

そして、藁をもつかむ思いで、知人の娘さんが通っている精神科へ行くことにしました。

そこは今までで一番、待合室に患者さんがいて、信用できるかもしれないと期待していました。

しかし、それは間違いでした。週に一回の診察。毎週変わる処方。増え続ける薬の数と種類。

あの時の私は、ただ息をするだけの抜け殻でした。

抜け殻になった「私」

ほとんど意識はなく、一日中起き上がることもできず、家では奇声をあげ、壁に腕や頭をたたきつける。

腕も足も自分で切り刻み、包帯やガーゼは意味をなさず、パニック発作を起こしながら過食と拒食を繰り返す。

限界でした。

このまま死ぬのだろうと。ならば死のうと、何度マンションの屋上へ上がったかわかりません。

それでも私は、死への誘惑に耐え、医師に「紹介状を、ある大学病院宛てに書いてほしい」と頼みました。

「おそらくキミは診てもらえないよ」と医師は苦い顔で言いながら、しぶしぶといった様子で紹介状を書き、私はそれを持って診察予約を取りました。

8.ようやく出会えた「病院」

そこが、今通っている大学病院です。

その大学病院で私は、ようやく自分が境界性パーソナリティー障害であることを知りました。

長年自分の症状の正体がわからず、悶々としていましたが、境界性パーソナリティー障害であることがわかり、安堵したのを覚えています。

大学病院で初診を終えた私は、三日後には入院病棟にいました。

入院し、問診を受けたあと、さまざまな検査と心理テストを行い、そこで私は自分が虐待の被害者であったと教えられました。

今思い返せば恐ろしいのですが、私はそれまで自分が虐待の被害者であるなど考えもしなかったのです。

ここまでの更新:

診断が下るまで、私は自分が虐待を受けているとは知らなかった。|第1回・境界性パーソナリティ障害と虐待

思い返せばおかしかった「家族」。父と祖母から受けた虐待と、私を守ってくれた母。|第2回・境界性パーソナリティ障害と虐待

見捨てられ不安に振り回された私と私の周りのひとたちと。今の私が残したいメッセージ。|最終回・境界性パーソナリティ障害と虐待

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