思い返せばおかしかった「家族」。父と祖母から受けた虐待と、私を守ってくれた母。|第2回・境界性パーソナリティ障害と虐待

思い返せばおかしかった「家族」。父と祖母から受けた虐待と、私を守ってくれた母。|第2回・境界性パーソナリティ障害と虐待

おこられるのは「わたしのせい」

私の家庭は父、母、私の三人家族でした。

幼いころ、父は私に少しばかり厳しく、母は父にかまってばかりで私とはなかなか遊んでくれませんでした。

幼稚園に入ってすぐに父から字の読み書きや簡単な計算を教えられ、近所では頭の良い子と褒められていました。

幼稚園への送り迎えはスクールバスでしたが、近所の子と遊べるのはバスから降りて一時間ほど。あとは家に帰って父が作る問題集をひたすら解いていました。

休みの日も友達と遊べるのは父が許可した日の数時間だけ。誘われても許可がなければ遊びに行くことはできません。

家族で遊びに出かけるのもせいぜい隣の市にある公園程度。泊りの旅行に行ったことはありません。そんなことより勉強をしなければ私も母も、父に殴られてしまうのです。

でもそれは私が勉強を怠ったからで、きちんと勉強をしていれば怒られないと信じていました。

他の子たちも私と同じように、家に帰れば当然勉強をしていて、できなければ殴られ、蹴られ、罵倒され、真冬だろうと夜中だろうと半裸で外に放り出されていると思っていたのです。

きよくただしい「わたし」のせいかつ

家の中にある一番暗くて寒い部屋が私の部屋でした。私が部屋を出るのが許されるのは、食事と入浴と、眠る時だけ。

トイレは決まった時間に、五分だけ許されます。五分以上トイレにいると、勉強をサボりたいからトイレにいるのだと怒られてしまうので、便秘になりやすい体質になりました。

眠るときは朝起きてすぐに勉強するよう監視するため父と母の隣で寝かされていました。

勉強ができないことで暴力を振るわれたくなくて私は思い悩み、少しずつ眠れない日が増えていきました。

私は眠れないことを父に相談し、父は「眠れないなら勉強しろ」と言って勉強の量を増やしました。そのため、私はほとんど睡眠をとらずに幼稚園に行くことが何度もありました。

体調が悪く、熱が出た時は「体温計を擦って誤魔化したんだろう。行きたくないからって仮病を使うな」と怒られ、高熱のまま通園しました。

謎の腹痛にたびたび襲われ、激痛に耐えながらたくさんの病院にかかりましたが原因はわからず、体に異常はないのに原因不明の腹痛であったことから父に
「大人を騙すな。痛くもないくせにいちいち騒ぐな」
と殴られ、お腹を押さえながら勉強をしました。

勉強が中心の生活でしたが、父のいない時間を見計らって母が遊んでくれるわずかな時間だけは、年相応の子供らしい生活を送れていたと思います。

おかあさんはおとうさんのめいれいをきくもの。

父は無職だったのでほとんど毎日家にいて、一週間のうち家にいない時間などほとんどありません。

母は時々、暴力をふるわれながらも父に意見していたようでした。

父と母の間でどのようなやり取りが行われていたのか当時の私にはわかりませんでしたが、そういうときはたいてい母も暴力や暴言を受けていました。

母は父の言いなりで、ごくたまに私を助けることはあっても、優先されるのは娘の私ではなく父のほうであり、母親とは常に父親の命令を聞かなければいけない存在なのだと、当時は当たり前のように受け入れていました。

しょうがっこうには「テスト」がありました

小学校に上がっても、基本的な生活は変わりませんでした。学校から帰れば塾に行き、塾が終われば自室に軟禁され、朝が来れば学校に行く。

気まぐれに友達と遊ぶことを許されましたが、夕方五時を一分でも過ぎれば暴力が待っていました。

唯一、小学校に上がってから変わったことと言えば、学校でテストが行われ始めたことでしょうか。

幼稚園には学力をはかるものはありませんでしたが、小学校に行けば定期的にテストがあります。

100点以外はゼロ点だと教えられていたので、98点のテスト用紙は自室のクローゼットの隅に隠すしかありませんでした。

テスト自体を誤魔化すことはできませんが、学校に問い合わせない限りテストの回数を知ることはできない……通知表でばれてしまうのは仕方がありませんが、怒られる回数を減らすことは可能でした。

幼いながらによく考えたと思います。

生まれつき体の弱い私は小学校に上がってから何度も肺炎にかかり、医師の判断で何度も入退院を繰り返しましたが、入院中も休むことなく勉強をしていました。

学校に行けていないせいでクラスメートたちから置いて行かれてはいけないと思っていたからです。

高学年になるにつれて入院することはなくなりましたが、勉強については変わらない日々が続いていました。

「勉強ばかりしている」といじめられることも多かったのですが、友人がまったくいないわけでもなかったので、委員会活動などをしつつ優等生のまま六年を過ごしました。

暴力は止みました。いじめが始まりました。

そして中学生になり、私は急に成績が落ちました。

部活での過激ないじめが大きな要因だったと思います。

どうしても成績が戻らない私に、父は次第に興味をなくしていったようでした。

ちょうどそのころから父も働き始め、思い通りにならない私の成績に飽きたのだと思います。暴力や暴言は変わりませんでしたが、勉強について言われることはなくなりました。

代わりに学校ではいじめがエスカレートしていきました。率先して私を攻撃していたのは部活の先生でした。先生が私にだけつらくあたり、先生がするのだからとほかの生徒たちも私をいじめ始めたのです。

昨日仲良しだった友人が、次の日には私をいじめている。

誰を信じていいのかわからず、「仲良くしたい」という思いと「裏切られるくらいなら最初からかかわらなければいい」という思考がどす黒く渦巻き、私の腕にはカッターによる傷が増えていきました。

ドロドロの頭を引きずりながら…そして両親の離婚

やがて私も高校生になり、そこからのことは以前の記事に書いた通りです。

もともと父は「父親らしい人間」の演技をするのが好きで、外面もよかったのですが、「娘の行きたい大学に『行ってこい』と送り出す器の大きな父親」をやってみたかったようです。

もちろん、そんなつもりは一切なく、母には
「あいつはバカだな。娘のあいつを信用するおまえもバカだ」
と言っていたそうですが。

父を信じ、行きたい大学に合格できるよう成績を伸ばしていた私は、本当にバカでした。

暴力と屈辱は父と母が離婚するまで続きました。両親が離婚したのは、私が入院する半年ほど前。22歳の時です。

そして、精神科で「境界性パーソナリティ障害」と診断され、私は「教育虐待」と「身体的虐待」「心理的虐待」を受けてきたのだと知らされました。

虐待に初めて気付く

言われてみて、改めて考えてみれば、虐待であることに間違いないこともたくさんあります。

きっと普通のお父さんは、娘を軟禁したり、逆に無一文で外に追い出したり、無意味に罵倒したりしないのでしょう。

それは同時に、父からだけでなく父方の祖母からも虐待されていたことにも気づかされることになりました。

父方の祖母は「孫をお泊りさせる良いお祖母ちゃん」を演じるために私を呼び出し、近所の人には「今日は孫が遊びに来ているの」と言いながら、私に家の掃除をさせていました。

私を下着一枚にし、真冬の寒い中ベランダから室内の隅々まで冷たい水で拭き掃除をさせ、自分はこたつに入りながら「舞ちゃんが来ると家がきれいになるわね」と笑いながら見ていたりしました。

ガラではありませんが、その様子はまるで継母と義姉に虐げられるシンデレラのようだったと思います。

食事は、朝はクラッカー。昼はポン菓子。夜は少しのオムレツと小さなサラダと子供の手サイズの白米。食べ物をもらえるだけマシだったのかもしれません。

病院では、それも虐待であったと告げられ、私はショックを受けました。

母の行動の本当の意味を知る

そんななか、救いもありました。

ずっと私のことを嫌い、避けているのだと思っていた母は、本当は私を守るために父と戦っていたのです。

それにうっすらと気が付いたのは高校生の時。

私が入浴していると、父は無理やり入ってこようとしました。しかし母は、体を張って父を止めてくれました。

性的虐待を受けずに済んだのは、母が全力で止めてくれたからだと思っています。

私は母が殴られ、蹴られ、叫んでいる声を聞きながらシャワーを済ましていました。

私は、母に守られていたのです。

そもそも私のことを何とも思っていないのであれば、いくつもの精神科を探して連れて行ってくれることなどしないでしょう。

入院中のカウンセリングで自分の人生を振り返りながら、私は母の愛が確かにあったのだと泣きました。

殴られ、蹴られていたのは私だけではない。

母も同じ被害者で、娘の私を父と暴力から遠ざけるためにわざと私と距離をとっていたのです。

離婚の道を長年選ばなかったのは、片親になることで将来私の弊害にならないようにするためでした。

待望だったにも関わらず未熟児かつ仮死状態で産まれた私を、母がどれだけの想いで自分から遠ざけていたのか。

私と父を引き離すために自分と私の時間を削った母は、どれだけ心が痛かっただろうか。

思い返せば、母は殴られる私を抱きしめて一緒に殴られていたのに。私の代わりに蹴られて痣を作っていたのに。

機嫌が悪い父のサンドバッグにされていたのを、私は見ていたくせに。

私を助け、守るためにどれだけ努力したのか知っていたくせに、私は母に愛されていないと、どうして思ってしまったのか。

保育士だった母は、自分の手で娘を自由に育てたかったと言っていました。勉強を強要するのではなく、娘がやりたがることをやらせ、たくさん一緒に遊んであげたかったと。

母と一緒にいられない時間と、数々の暴力が、私を境界性パーソナリティー障害にしてしまったのだと思います。

そして、父と母の離婚によって、私たち親子はやっと親子になることができました。

境界性パーソナリティー障害について、本格的に治療が始まったのです。

ここまでの更新:

診断が下るまで、私は自分が虐待を受けているとは知らなかった。|第1回・境界性パーソナリティ障害と虐待

思い返せばおかしかった「家族」。父と祖母から受けた虐待と、私を守ってくれた母。|第2回・境界性パーソナリティ障害と虐待

見捨てられ不安に振り回された私と私の周りのひとたちと。今の私が残したいメッセージ。|最終回・境界性パーソナリティ障害と虐待

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