見捨てられ不安に振り回された私と私の周りのひとたちと。今の私が残したいメッセージ。|最終回・境界性パーソナリティ障害と虐待

見捨てられ不安に振り回された私と私の周りのひとたちと。今の私が残したいメッセージ。|最終回・境界性パーソナリティ障害と虐待

見捨てられ不安に悩まされた10~20代

境界性パーソナリティー障害の患者さんが一番悩まされるのは「見捨てられ不安」だと思います。

私も例にもれず見捨てられ不安が強く、人との接触が怖くて避けて生きてくることが多かったように思います。

幼少期、あまり友達と遊ばずに過ごしたこともあり、友達を誘ったり仲良くすることがうまくできず、人との距離感がわからないまま、今の年齢まで生きてきてしまいました。

友人に対する相反する心

現在も見捨てられ不安はもちろんありますが、私の人生のなかで一番酷く見捨てられ不安が出ていたのは高校時代から二十代前半ごろだったと思います。

私の進学した高校は同じ中学から進学した生徒が少なく、友人関係はほとんど一から築いていく状態でした。

そのため、いままで私をいじめてきた同級生はおらず、いじめられてきた過去を知らないクラスメートたちとの生活はとても新鮮で非常に楽しいものでした。

私は「この子たちが一緒にいてくれるから毎日がすごく楽しい」と思う反面、「この子たちが私から離れていったらどうしよう」と思っていました。

恋愛不信に陥った経験

時を同じくして、高校時代の私には他校に付き合っている彼氏がいました。

彼は中学のときからテニス部で、いつも遅くまで練習していたことを私は知っていました。

だから私は「メールや電話は彼の負担になるといけないから」と控えめな連絡の仕方をしていました。

しかし半年ほどして彼が浮気をしていることを人伝に聞き、そこで私は「常に連絡をして相手の気持ちを確かめなければ人は離れて行ってしまうものなんだ」と思ってしまいました。

仲良くなった子には特に深い用事もなく内容も薄っぺらいメールをたくさん送り、些細なことでも嫌な気持ちにさせてしまったかもしれないと思い込むとしつこく謝りのメールを送ったりしていました。

止められない強迫観念

高校二年生になり、私は女子が極端に少ないクラスへ割り振られました。女子の数は私を含めて七人。もともと女子生徒が少ない学校ではありましたが、それでも浮くほど少ない人数です。

必然的に女子は七人で行動するようになり、私はさらに「この子たちがいなくなれば死を選ぶだろう」と強く思い始めました。そしてそれを友人たちに日常的に話していました。

そのころすでに腕にはいくつもリストカットの傷があり、少しのことでパニック発作を起こし、自律神経の乱れから生理不順などを起こしていました。

今思えば、足が痛くなって動かせなくなるのも、なぜか左目だけ腫れ上がるのも、体からのSOSだったのかもしれません。

ささいなことがきっかけで…

ある日私は、一人の女子と喧嘩をしてしまいました。必要最低限の会話はするものの、喧嘩をしているので談笑をすることはありません。

ですが、女子の悪いところなのでしょう、私以外の女子たちも彼女を無視するようになりました。

彼女は女子の少ないクラスで孤立し、私はほかの女子たちに「私と彼女の問題なのだから、加担するようなマネはしないでほしい。それはいじめだ」と伝えました。

私は自分が見捨てられるのも怖かったのですが、他の誰かが見捨てられるのも怖かったのです。

しかしその思いはうまく伝わらず、彼女を無視するのは三年生の秋まで続きました。

三年生になった私は、どうしても県外に行きたい学校があったので、遅いとは思いつつも本格的に受験に向けた勉強を始めました。

教育虐待にはあっていましたが、もともと勉強は嫌いではなかったので、学校主催の夏の補習や特別授業には積極的に参加し、成績はどんどん伸びて夏の模試ではA判定をもらえるほどになっていました。

先生たちも「これならいけるだろう」と太鼓判を押し、本番の冬に向けて仕上げに入るころ、それは起こりました。

文化祭準備の1日で

きっかけはささいなことで

学祭の前日。私は早く帰って勉強をしたかったのですが、クラスの女子たちは遊んでばかりでなかなか準備を進めようとしません。

最後の学祭なので楽しみたかったのもあったのでしょうが、日が暮れても帰ろうとはしませんでした。

呆れた私は一人黙々と作業をこなし、帰り支度をし始めました。

それでも彼女たちは遊んでいたので
「勉強がしたいから、準備も終わったし帰るね」
と言って帰宅。

家に帰って父からの暴言を聞きながら勉強し、もはや習慣化していた友人たちへのメールを送信。

いつもなら適当な返事と「また明日学校でね」というお決まりな一文が送られてくるのですが、その日はなぜかクラスの女子からだけ返事がきませんでした。

その時は深く考えなかったのですが、翌日登校した私はクラスの雰囲気が変わっていることに気が付きました。

あからさまな無視…自然に脚が向かったのは

今まで私と仲良くしていた六人は、私を避けるようになっていたのです。そして私と喧嘩していた女子にたいして過剰に話しかけ、談笑していました。

私はその状況に理解ができず、ただ茫然と廊下で時間を潰しました。

他のクラスにも友人はいましたが、各々クラスメートと行動していましたし、最後の学祭なんだから好きな子と回ったほうがいいだろうと、私は一人でいることを選びました。

その日はとても長い一日に感じました。

昼食は喉を通らず、午後になっても変わらない状況に、私は無意識に窓へと歩み寄っていました。

場所は校舎の最上階、四階。

死にはせずとも大ごとにはなるだろうと。

そうすればクラスメートたちはなにかアクションをおこしてくれるだろうと。

身を乗り出したとき私を引き留めたのは、クラスの女子たちではなく、付き合って数か月の彼氏と、趣味が合うからと何度か会話をしたクラスの男子たちでした。

彼らが私の腕を掴まなければ、きっとそのまま飛び降りていたでしょう。

耐えられなかった…わけがわからなかった…

その日私は、それまでの人生で一番深く腕を切りました。

なかなか血が止まらず、長袖の制服がどんどん赤く染まりましたが、あまり痛みは感じられませんでした。その時の傷は今でも腕に残っています。

そのまま首を吊ろうとしましたが、先生たちにみつかってしまいました。

どうやって帰宅したのか覚えていませんが、その日の夜は返ってくることのないメールを送り続けていたこと、ショックで寝込んだ私を蔑んだ目で蹴り飛ばした父の姿、そして別の友人経由に「長瀬さんが一生懸命勉強しているのが気に入らない」とメールが送られてきたことを覚えています。

そして唯一、クラスの女子の一人から「メールも電話もうざいからしないでくれる?」という短い返信メールがあったことも……。

止まらない自傷…そんな中でも。

それからは日に何度もリストカットをしました。

学校に行く回数も減り、教室で無視と嫌がらせに耐えられなくなれば校内でくりかえし自殺未遂をし、先生に見つかっては叱られていました。

唯一の救いだったのは私を助けてくれたクラスの男子たちとの会話が増えたことでしょうか。

もともとクラスの女子たちにはアニメや漫画が好きだと隠していたので、いわゆるオタクな男子たちとの会話は本当の自分をさらけ出すことができて楽しかったのです。

もちろん、女子からの嫌がらせは激化しましたが……。

彼らとの会話はとても有意義で、もっとたくさん話がしたいと思いました。

しかし、できませんでした。

「この人たちも、いずれ私を見捨てるのだろう。見捨てられるのであれば、心の距離感を図り間違えないようにしよう」と思っていたのです。

どうせもう高校三年生の後半。志望大学は県外だから会うことはないのだろうからと。

希望をへし折られたあのとき。

そしてセンター試験直前。父のあの言葉です。

「バカかお前は。県外の大学なんて行かせるわけねえだろ。たかが模試でA判定取れたくらいで、図に乗るな。所詮模試は模試。受かると思うな。それにお前みたいなやつは一人暮らしもできないだろうしな」

母はそれを聞き、
「私が一緒に上京する。だから一人暮らしにはならないし、生活できるように向こうで私は仕事を探す」
と言ってくれました。

しかし。父はそれに怒り、

「俺のことはどうするんだ!誰が俺のメシを作るんだ!?ガキの遊びにいつまで付き合うつもりだ!いい加減にしろ!」

ようするに父は、娘の将来よりも、奴隷が逃げることを恐れたのです。

私は何のために勉強を強いられてきたのかわからなくなりました。

身も心もズタボロで

その後の私は、大学受験に二度失敗し、三度目でようやく地元の大学に合格しましたが、すでに精神科の薬でどろどろになっていたため、すぐに中退することになりました。

彼氏や友人に「死にたい」とリストカットの写真を送り付けては「死なないで」と言われることに安堵。

インターネット上でも画面越しの友情に期待と不安を抱き、引きこもっていると父に殴られるので派遣のバイトやオフ会に参加して自分の存在を求めてさ迷っていました。

やがて彼氏には精神疾患についての偏見で振られました。

いつも「死なないで」と言ってくれていた友人からは「私にどうしてほしいわけ?」と縁を切られました。

どうかこの子だけは離れないでと適度な距離をとっているつもりだった親友からは「都合のいいときばっかりメールしてこないで。普段は連絡してこないくせに」と言われました。

連絡をしても、しなくても、愛情や友情が壊れるときは壊れるのだと私は知りました。

その点、派遣バイトはその場だけの付き合いですし、オフ会もそこまで親しい関係に進展しないことが多かったので、気が楽でした。

私は「離れていくなら、近づかないで。もう傷つきたくないから」と思い、上辺だけの付き合いを続けました。

ようやく出会えた「同志」。でも。

そんななか、インターネット上で同い年の精神疾患に悩む男性と知り合いました。

彼とは話が合い、私も彼も協力して試行錯誤を繰り返し、対人関係を円滑にできるよう話し合ったり励ましあったりして確かな友情を作り上げていきました。

同じ県に住んでいたこともあり、
「いつか絶対に会おう。会って、お互い好きなスタバの抹茶フラペチーノで乾杯しよう」
と約束していました。

やがて彼は就職し、社会復帰することができました。

それから約半年後。

彼は自らこの世を去りました。

私が彼に会えたのは、葬儀の後の遺影だけです。

彼のご家族からいろいろとお話を聞きましたが、頭のなかが真っ白になってしまって、なにを話していたのかよく覚えていません。

ただ、もう会えないのだという事実がとてもつらく、どこか私は「彼に置いて行かれてしまった」という虚しさを感じていました。

あれからずいぶん時は流れて。

それからの私は随分と変わりました。

年を重ねたのもあったのだと思いますが、他者に対して過度な期待をしないことを覚えたのです。

第三者から見れば友人関係のように見えても、偽りのものにすぎない。

他者に期待しないから見捨てられても心はあまり痛まない。

見捨てられる前に見捨てればいいのだし、求めれば悲しむのは自分なのだからと。

好かれることも、嫌われることもない、薄っぺらい人間関係が私の交友関係の全てでした。

そうして生きてきましたが、やはり人間である以上、他人との関りを断つことはできません。友人ができれば期待してしまうし、異性に対して恋心を寄せてしまうのです。

今も襲ってくる不安と闘いながら。

そして今でも私は友人や母、結婚を約束した彼にも見捨てられるのではと常に思っており、周りに迷惑をかける生活を送っています。

もちろん今の私の周りにいる人は長年私を見捨てなかった人たちですし、見捨てて孤独に突き落とすなど無いとは思うのですが……それでも不安にならざるをえません。

とくに彼には見捨てられていまう未来ばかり考えてしまって、優しい彼の裏の顔を疑ってしまいます。

つい先日も彼に酷いことを言ってしまい、これを書いている今でも後悔と反省と不安でいっぱいです。

世の中には私なんかより素敵な女性はいっぱいいますし、いつ彼の気が変わってしまってもおかしくありません。

そこでつい「貴方が浮気をしたら私は死にますね」などと言ってしまうのです。

彼は私の病についてとても理解のある人で、私が不安になっても静かに抱きしめてくれます。

だからこそ、そんな彼が浮気してしまうなどと勝手な妄想に悲しむ自分が許せなくなります。

パニック障害と発作性頻脈症について

パニック障害ついては一人では外出できない日々を送り、出かける前には必ず頓服薬を飲んでいます。

家からたった五百メートル離れたところですら出歩けない日があります。

最近になって同伴者がいれば車やバスでの移動ができるようになりましたが、精々三十分が限界で、休憩を挟みながら出かけています。

一人で移動するときはスマホをいじっていたりして目的地までパニック発作のことを考えないようにひたすら耐えて行動をしています。

とても不便ですが、やはり生きていくためには移動が不可欠です。ですから、通院するのも一苦労です。

数年前から突発的な離人感にも襲われるようになり、その時は全く足が動かなくなってしまうので、外出先で車椅子を借りなければならないことも多いです。

申し訳なく思いつつも、動かないものは仕方ありません。

発作性頻脈症は、発作性頻拍症とも呼ばれていますね。どちらが正しい病名かわかりませんが、症状は変わらないと思います。

私の場合は眠りにつく前、うとうとし始めたころに発作が起きやすく、横になって安静にしているのに脈拍だけがマラソンをしているかのように100~130まで上がります。

最高で就寝中に180まで上がったことも。

もちろん就寝時間だけでなく、どこで発作が起きるかわかりません。外出中に脈が速くなり、蹲ることもしばしば。

最近では認知度が上がってきたヘルプマークも身に着けています。

死にたい。でも死にたくない。

今でも私は死にたいと思うことがあります。死んでしまえば様々な苦しみから解放されるのにと思ってしまうのです。

その一方で、少しの体調不良に激しく反応してしまい、あっという間にパニック発作を起こしてしまいます。ネガティブなニュースなどに同調してしまうと薬に頼るしかありません。

死にたい気持ちと死にたくない気持ちがせめぎあい、自分の中で処理できずに寝込んでしまうことも多いのです。

それでも。

薄っぺらい人間関係を続けてきた私が今、母と親子の絆を築き、恋をして愛することを知り、確かな友情を育み、他人に愛情を持てるようになったのです。

見捨てられることへの不安は変わりません。

けれど人は、人と関わらずに生きていくことはできないのです。

私は、人との距離感が大事だと意識しながら生きています。人にどの程度感情を預けていいのか、相手によって見極めていくことで少しでも楽に生きていけるような気がしています。

同じように悩むあなたへ

私と同じ境界性パーソナリティー障害に悩んでいる貴方へ。

生きるということは非常に難しいことです。これは一生続きます。

リストカットしたいときもあるでしょう。

見捨てられ不安から間違った行動をとってしまうこともあるでしょう。

それでもこれを読んでいる今、貴方は確かに生きていて、私の人生に耳を傾けていてくれているのです。

「なんだそんな程度の苦痛か」と思うかもしれません。

「自分のほうがもっと」と思うかもしれません。

貴方の痛みは、貴方が一番よく知っているはずです。

どうか貴方が、少しでも生きていきやすい人生になりますように。

同じ病に捕らわれた人間がここに一人、貴方の幸せを願っています。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

長瀬舞

ここまでの更新:

診断が下るまで、私は自分が虐待を受けているとは知らなかった。|第1回・境界性パーソナリティ障害と虐待

思い返せばおかしかった「家族」。父と祖母から受けた虐待と、私を守ってくれた母。|第2回・境界性パーソナリティ障害と虐待

見捨てられ不安に振り回された私と私の周りのひとたちと。今の私が残したいメッセージ。|最終回・境界性パーソナリティ障害と虐待

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