父親からの虐待。消してしまいたい過去。親友との出会い。|第1回・機能不全家族とPTSD

父親からの虐待。消してしまいたい過去。親友との出会い。|第1回・機能不全家族とPTSD

みなさんこんにちはこんばんは。氷野です。

今回から2週にわたり、紫絵里さんというWebライターさんをお招きして、紫絵里さんが体験した「歪んだ親子関係」とそれによる「PTSD」などの症状に苦しんだ日々をつづっていただきます。

途中ショッキングな内容が含まれますが、けして紫絵里さんが望んだことではないということ、紫絵里さんがこのことによりとても深い傷を負ったことをご了承の上読んでいただけると幸いです。

それでは筆を紫絵里さんに渡していきましょう。

荒れた高校時代から一念発起!看護師を目指して孟勉強の日々。

はじめまして。紫絵里です。

10代の頃のわたしは所謂ヤンキーでした。今でいうギャル?ですね。

偏差値の低い高校へと進学しましたが、勉強よりも仲間に会いに通学するような日々でした。

しかし高校2年の頃に、既に看護師として働いていた従姉妹から「これからは手に職をつける時代だよ」と言われ、単細胞なわたしは翌日学校で仲間に「看護師を目指すからヨロシク!」と、突然の宣言をしました。

ん?どこかで聞いたような話ですか?それはきっと【ビ○ギャル】ではないでしょうか?

それからは看護学校入学の勉強と、バイトに明け暮れる日々でした。

そうして無事に看護学校に入学、3年間で卒業し国家試験に合格して、宣言通り看護師になりました。

憧れの職場での満ち足りた日々。そして狂い始めた人生のスタート。

看護師として働きはじめて3年が経とうとしていた頃、ある体調の変化に悩まされていました。

それは、どんなに疲れていても眠れないことです。

多忙を極めていた日々なのに、どうしても眠ることが出来ないのです。

アルコールの力を借りてもダメ。

そんな日々を送る中、わたしはついに職場で倒れてしまい、意識を失ってしまいました。

突然の息苦しさ、脂汗、悪寒、激しい鼓動と不安感。

周りの景色が徐々に歪み、灰色へと変わっていった記憶は、今でも鮮明に覚えています。

わたしは同僚たちに助けられ、担架で運ばれたようでした。

目が覚めた時には、何故か別棟にある精神科のベッドの上でした。

精神科の医師から「随分と無理をしているようだね。少し休暇を取るつもりで、ここに入院してみない?」と思いもよらない提案をされました…いえ、本当は分かっていたのです。自分が無理をしていることも、心が悲鳴をあげていることにも。

なので職場を有給扱いにしてもらい、数日間の精神科への入院を決めました。

そして数日後、医師から「しばらくの間ここへ通いながら仕事をすることは可能かな?」と問われ、観念したわたしは本格的に治療を受ける覚悟を決めました。

今思えば、ここからが地獄の始まりだったように思います。

働きながらの治療と、下された診断結果。

理解ある上司や同僚たちのお陰で仕事を続けることが出来ましたが、平行して行っていた精神科の治療が進むにつれ、今までの勤務形態を変更せざるを得なくなりました。

当時病棟担当だったのを外来担当へと移り、決まった時間で仕事を終え、そのまま精神科の治療を受ける日々が続きました。

わたしはとても苛立っていました。

どうして、いつもこうなるの?

どうして、いつも邪魔をするの?

どうして?どうして?

それは、自身の両親に向けた怒りでした。

治療を続けて約1年が経った頃、医師から下された診断は【PTSD】

その後に病名は次々と追加され、最終的には

【統合失調症】
【パニック障害】
【うつ病】
【睡眠障害】

と連なっていきました。

医師の言葉を借りれば「色々な症状が混ざり合ったカクテル状態」です。

医師からの診断を聞いていたわたしは酷く冷静であり、心のなかで「そうでしょうね」と呟いていました。

その様子を見ていた医師は「長期戦になるけど着いて来れるよね?」と、これまた冷静に返されて、わたしは苦笑いをするしか出来ませんでした。

冷静沈着でいられたのは、精神疾患になるであろう原因が自分の中で明確だったからです。

歪んだ家庭環境。「いい子」だったわたし。

家族構成。

わたしの両親はとても仲が悪い夫婦でした。

父親は仕事が続かない、怠け者のアルコール依存症、ギャンブル依存症。

母親は外面はいいが、家庭ではヒステリーを起こす怖い人。

そして嘘ばかりつく虚言癖。

2つ上に兄が居ますが、病弱で体が小さく泣き虫。

そんな中でのわたしの役割は、しっかり者で、放っておいても大丈夫な子でした。

所謂「いい子」でした。

「親」のようなもの。

物心ついた時からの父親の印象は、いつもアルコールが入っている状態で、横暴で見栄っ張り。

家族の中では「俺様が絶対」の人であり、逆らうことは許さない、いつでも怒鳴り散らす人でした。

しかし一歩外に出れば笑顔を振りまき人当たりが良く、近所の人達からは「子煩悩ないい人」と思われていました。

外での父親の傍らにはいつでもわたしが居たので、余計にそう思われたのでしょう。

いつでも手を繋ぐ仲良し親子…

一方の母親は父親の文句を言いながらも嫉妬深く、父親がわたしを可愛がることを酷く嫌っていました。

母親ではなくて、ただの女の感覚です。

父親と同じく外ではニコニコして、近所の奥様方の中心で、大きな声で嘘ばかりを言う、虚言癖の見栄っ張りでした。

そんな壊れた家庭の中での生活は、いつでも親の顔色を見て緊張して過ごすという、異常なものでした。

両親からの性的虐待。消してしまいたい自分の過去。

幼稚園に上がった頃。

わたしが幼稚園にあがる頃から夜寝ていると、父親が布団の中に入って来て、酒臭い息で「可愛いね」と言いながら身体中を触るという行為が始まりました。

その行為は日に日にエスカレートし、服の上からだったのが直接触るようになり、そして、下着を下ろされ陰部をまさぐるようになりました。

当時のわたしは何をされているのか理解が出来ずに、父親が言う「好きだから特別に触るんだよ。だから誰にも内緒だぞ」の言葉に、黙って頷くしかありませんでした。

その行為はほぼ毎晩繰り返されました。

小学校に上がった頃。

小学校に入学したその日、初めてのランドセルに胸を弾ませたことと、幼稚園とは違う雰囲気に圧倒されたことで、疲れ果てたわたしは夕飯も食べずに寝てしまいました。

体が重たくて動けない違和感で目を覚ますと、父親の顔がすぐ目の前にありました。

「どうしたの?」と聞こうとした口を塞がれ、乱暴にパジャマのズボンを下ろされ、激しい痛みと、酒臭い父親の荒い息づかいに恐怖で身動きが取れず、ただ終わるのを待つことしか出来ませんでした。

行為を終えると父親は「誰かに言ったら殺すぞ!」と、わたしの首を強く絞め、薄笑いを浮かべながら部屋から出て行きました。

これはきっと怖いことなんだ。

でも誰にも言ってはダメなんだ。

だって、絶対に、殺されるから…

その日から毎晩、同じ行為は繰り返され、日曜日に父親と二人の時も繰り返され、何度も…何度も…

わたしは慢性的に痛む陰部や下腹部を母親にも言えず、元気なふりをして今までと変わらずいい子でいました。

思い出したくない夏休み。

そんなことが続いていたある夏休みの夜、兄が友達の家へ泊まりに出掛け、ヒマをもて余していたわたしの元へ母親が声を掛けて来て、両親の寝室に呼ばれました。

そこには父親もいて、床に座ったわたしに2人が言った言葉は「これからいいものを見せてあげるから、しっかり見ておきなさい」でした。

それは父親と母親が裸で抱き合い…そう、性行為を見せられたのです。

猛烈な吐き気を我慢出来ず、その場で嘔吐してしまったわたしを、母親は殴る蹴るをしながら「わたしの男を取るんじゃないよー!」と、ヒステリックに叫んでいました。

吐き気と痛みで意識がもうろうとし、ぐるぐる回る天井を見ながら思ったことは

「こいつら…おかしい」

そして、父親からされていた行為の意味をなんとなく理解したことで

「わたしも…同じだ…おかしい」

「生まれて来なければよかった」

そう思ったのは、小学2年生のことでした。

父親からの性的虐待は、わたしが中学生になるまで続きました。

これはもう、人間ではなくてただの獣でした。

初めての【安心できる場所】。個性的な親友との出会いと物語。

歪んだ?狂った?親子関係のせいで、わたしは感情を表に出せない人間になってしまいました。

正確には、人と関わることが苦痛であり、独りでいる方が楽だったのかもしれません。

人と関われば笑顔を作らなければならない。

しかしもうそんなことは家庭の中だけで十分であり、いちいち誰かに合わせなければならないなんて、面倒くさいだけ。

女子の集団がヘドが出るほど嫌いでした。

なにが楽しいの?バカみたい。

ですがこんなわたしにも、変わり者の友人との出会いがありました。

小学校3年生、9歳の頃でした。

その子はいつも学校の飼育小屋にいました。登校してから下校するまでずっとです。

ニワトリやチャボ、うさぎに餌をやり、いつでも動物を抱いていましたが、何故か無表情。

この子は本当に動物が好きなのかな?

なんだか彼女の存在がとても気になり、少しづつ現実的な距離を縮めながら近づき、10日間かけて彼女の横に並んでみました。

彼女はやはり、無表情で無反応。

しかしそれが何だか心地良い。

わたしは勝手に彼女の隣を、【唯一安心出来る場所】としました。

それは今も変わりません。

しかしその後どのようにして仲良くなったのかを、お互いが覚えていないのです。

きっとそれほど自然に、お互いを求め合ったのかと思います。

あくまでも主観であります 笑。

無口な親友とわたし。大切な彼女。

時系列は前後しますが、わたしが荒れた中学時代の校舎に彼女もいましたが、相変わらず無反応でした。

無反応というか、一切何も変わらなかった、が正しいように思えます。

乱れた服装を咎めるでもなく、ヤンキー化したわたしを避けるでもなく、まるで何事もなかったかのように「食べる?」と、いつもの様にお菓子を差し出すような子でした。

別々の高校へ進学しましたが、付き合いが途切れることはありませんでした。

わたしは放課後、彼女の自宅で一休みをしてからバイトに行く。

何処へ行くにも必ず彼女の自宅を経由して、「行ってきます」と出掛けていました。

それがわたしたちの当たり前の日常であり、彼女の両親も彼女と同じ反応で、普通に「行ってらっしゃい」と返してくれました。

そしてわたしは彼女が高校を卒業するまで、彼女の声をあまり聞いた記憶がないのです。

聞いた言葉は短い単語のみで

「うざい」
「美味い」
「不味い」
「暑い」
「寒い」
「食べる?」
「それくれ」

思い出そうとしてもこの7つのフレーズのみなのです。

わたしが彼女に強く惹かれたのはきっと、彼女の中にある闇だったように思います。彼女の闇については秘密とさせてください。

そしていつでも無関心なようでいて、しっかりとわたしを見てくれている。

わたしの存在を許してくれている。

彼女の隣はいつでも、【安心出来る唯一の場所】でした。

そんな彼女の本当の強さを知ったのは、わたしが精神疾患を患ってからでした。

自殺未遂を繰り返すわたしを責めずに、黙って抱きしめてくれたこと。

制御不能になったわたしの放浪に、黙って着いて来てくれたこと。

彼女の存在自体を否定して、何度となく振り払っても

「わたしが勝手にあなたを必要だから、失くしたくないだけだから。」
「わたしの中のあなたは何も変わっていないから。」

そして彼女からもらった1番の言葉、わたしの宝物の言葉は

「頑張らなくていいんだよ!」

です。

みんなが口を揃えて「頑張れ、負けるな」と言う中で、彼女だけがこの言葉をくれたのです。

「今まで頑張って来たんだから、少し休もうよ!」
「ボチボチ行こうぜ!」

相変わらずのマイペースで、周りからは変人扱いされている「わたしの親友」は、わたしの支えであり、わたしの目標でもあります。

このお話の続きは、後程また。

これまでの更新:

わたしを苦しめる【歪んだ親子関係】。唯一の【安心できる場所】|第1回・機能不全過程とPTSD

悪魔との決別。アンバランスな心。早すぎた結婚と別れ|第2回・機能不全家族とPTSD

家を出る。親友の存在と親友が与えてくれた生きる意味。|第3回・機能不全家族とPTSD

終わりのない闘い。心の断捨離。過去と現在と未来。|最終回・機能不全家族とPTSD

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